第6ブログ 『殺人犯を批判できるのは殺したい欲求を持つものだけ』

深夜の更新失礼します!!

 

人殺しを自分は完全否定できない。

というのも自分には不特定多数の人を殺したいという衝動が備わっていないからだ。

ここで言う人はヒトであり、人間でない。特定の誰かを殺したいという気持ちがわくときはあるけれど、ヒトを殺したいという衝動は今のところない。

だとすれば、それがどの程度の欲求なのかわからない。例えばそれが月に一度来るカツを食べたい欲と同様なら防ぐことは難しいと思う。けれども人を無差別に殺すことを悪としている。その発想すらない人が。

決して殺人を肯定しているわけではないが、殺人をひどいと騒ぎ立てる女のパンケーキ食べたい欲と殺人欲が同等であれば、それを我慢しない女もまた相当な罪人なのではないか。それがいつ殺人欲に変わるかもわからないままただただ否定するのは考えが足りてなさすぎるように思う。

 

自分は、バスに乗っていればこの手に持ったスマートフォンを窓からぶん投げたいという欲求にかられるし、葬式中には坊主の頭をはたきたくなる。この衝動が全人類に備わっているとは思えないが、自分には搭載している。自分にとって坊主の頭をはたきたい欲求は、それが達成した時の爽快感を考えるとサウナに行きたい欲と同等程度だ。しかし、他の人にとっては坊主の頭を叩いても爽快感が得られないわけである。だとすれば、自分が坊主の頭を叩いたとして、『考えられない』という人がいれば、その人が自撮りのインスタでいいねを貰っている場合自分も『考えられない』のでイーブンとなる。

 

とてつもない暴論なのは、理解しているが、このような文章を書きたいというのも一人の欲求であり、書かなければ明日にでもバスからスマホを投下するかもしれない。

ここで問いたいのは、『考えられない』ことを理解しよともせずに否定することは間違っているということだ。『考えられない』という自分だけのものさしで世の中を渡っているのであれば、殺人をしたいからしてもいいという自分だけのものさしで世の中を渡っている殺人者を否定することはできないのではないか。

 

もうこれ以上書くことは『考えられない』ので明日でブログを書くの辞める